生粋の蒼天を覆い隠す鉛のような東雲を見ていると、生肌に厳しい空気の凍てつきが、更に鋭さを増したように感じる。
そのような寒さの針が、昼下がりの修行を終えた俺を容赦なく突くので、縁側で恨めしく空模様を睨みながら湯呑で手を温める。
俺の体温へと昇華する緑茶は、あまりにも早く冷めてしまい、風味が劣ってゆくだろう。
茶柱の立たない水面に、雲の影が射し。
嗚呼、とても深い。 然すれば、午後は雨だろうか。
「出雲?」
―――― しかし、雨の兆しかと思った気配は、兄上の影であった。
音もなく俺の傍に歩み寄り、佇んでいる兄上は、微笑を携えて首を傾げる。
以前より少し、伸びた髪がさざめく。
「そんなに怖い顔をして… お天道様が何をしたって言うんだい。」
男の俺から見ても端麗だと言える容姿から、木葉が掠れ合うような笑い声が落ちて来た。
やんわりと首を横に振り、茶を飲み干すと再び空を仰ぎ。
「今日もまた曇りだと、思っていたのだ。」
隣に兄上が腰かけるのを待ち、そう切り出す。
昨日も、一昨日も、その前も。
如月が巡り来てから毎日が曇り空である。空は他の表情を忘れてしまったのか、嘆かわしい。
加えて、ただの曇天ではない。
眺めれば眺め尽くすほど、殊更に不安になる厚い鉛色だ。
冬の空は何故、長しえに侘しいのだろう。
紅の焔を振るっても、浅葱の凪を感じても、鈍重な空は変わらない。
「出雲は、曇天が嫌いなの?」
両の手を擦り合わせながら、兄上が尋ねる。
綿胞子のような吐息が疑問符となって浮かんだら、俺はそれと同様に、白い息を吐きながら答えよう。
「そんなことはない。……ただ、冬の曇空だけは、あまり好きではないな。」
花曇りと呼ばれる春の曇天は、桜の桃色が相まっている所為か、一種の趣だと感じる。
夏の雲は、鬱陶しい蒸し暑さを拭うから有難い。
そして、燃え盛る紅葉の背景でひっそりと成りを鎮める空模様は、心を落ち着かせてくれる。
だが、冬だけは。
四季折々の廻りは好ましいが、冬の雲は、どうしても苦手だった。
取り分け、如月は。
「……兄上。俺の名は、”雲が出でる”という意味なのだろう?」
唐突に話題の趣向が変わると、兄上は目を瞬かせるが、すぐに小さく笑って。
「ああ、そうだね。」
そう頷いた。俺はたっぷりと間をおいてから、次を切り出す。
「………家名と合わせると、”如月に出でる雲”という意味だな。」
「……うん。その通りだけれど。」
話題の真意を読み取れないのか、流石の兄上も少々怪訝に顔を顰めるも、ひゅうと音を立てて吹く北風に何かを得たのか、「ああ、」と緩慢な相槌を零した。
「まさに、今日のような状況を言うのだね。」
その返答を受け、頷き、また天を睨む。
灰色の雲は風を受け、仰々しく俺たちを見下げているので、それに対峙するが如く強い口調で語り始めた。
「俺は何とも、物悲しいのだ。自分の名前が、このような侘しい空模様を現すものであることが、不本意でならない。……名とは、両親からの最初の賜り物だ。不躾な念を抱くべきではないのだろうが、しかし、納得がいかないよ。」
齢十八にして己の名について細々と文句をつけるのは、野放図以外の何物でもない上に、未熟さを明け透けにしているようで情けない。
隣に居るのが兄上だからこそ、愚痴めいた独り言を零せるのだろう。
兄上なら俺の気持ちを与してくれると、その万物をも拒まない柔らかな物腰に、信頼を置いているからこそ。
だがしかし兄上は笑った。
嘲るようではないにしろ、泣く子を宥める親御のように。
俺は居た堪れない気持ちになった。それがそのまま顏に出る。
「……あ、ごめん。だって、辛辣な顔で何を思い悩んでいるのかと思えば…」
「兄上、俺は本気なのだ。茶化すのは止してくれないか。」
「うん、すまないね。」
俺は返事の代わりに溜息をつく。
曇天だと昼間でも暗い。だから気持ちまで落ち窪むのだろう。
兄上に縋るような真似をしてしまったことも情けなく、歯痒さと暗澹たる思いを抱え、黙って座っていた。
居心地の悪い沈黙が縁側を占めた後、兄上が徐に口を開く。
「では、出雲。僕の名の由来は知っているかい?」
「………兄上の名?」
時雨。一時に降る程よい雨、と聞いたことがある。
そのような趣旨のことを口にすると、兄上は浮雲のように微笑んだ。
「そう。秋から冬にかけて降る、いわば通り雨のことだ。」
平素から風を従わせ、泰然自若と生きている兄上に似合いの名だ。
むしろ兄上からその名が生まれたと言っても過言ではない。否、それは誇張だった。
「良い名ではないか。恵みの雨なんて表現もあるしな。実に良い名だ。」
「……出雲、拗ねている?」
「拗ねてなどいない。」
この期に及んでからかう兄上をぴしゃりと往なし、もう一度茶を汲んでこようと立ち上がりかけたら、
「そうつんけんするんじゃないよ。話は最後まで聞いておくれ。」
着物の裾を引っ張られ、腰を縁側に戻された。
兄上は時に強引だ。
普段は長閑にそよいでいるのに、時として激しさを増す、まさに雨の如し。
名は体を表すとは言い得て妙である。
いや、待て。ならば俺は如月の雲のように鈍重であると言うのか?
墓穴を掘り、更に表情を陰鬱とさせる俺に、兄上は柔らかく語り掛けた。
「しかしね、出雲。時の雨は、雲が出ていないと降ることはできないんだ。」
「……はあ。」
当たり前だろう。
快晴に降る雨があるとしたら、それはどこぞの人間が暴発させた蛇口の飛沫だ。
「それに、降り始められたとて、雲がなくなってしまったらそこで終いだ。時雨とは、雲が腰を据えていなければ、すぐに霧散してしまうんだよ。分かるかい?」
「言っていることは分かるが、伝えたいことが分からん。」
「相変わらず、出雲は頭が固いね。」
さりげなく卑下されたが俺は真面目に考えた。
雲が無ければ雨は降ることができない…?
単語の意味を有体のままに受け取るとしたら、それは。
「如月に、出でたる雲間と、時の雨。明鏡止水と、なりにけるかな。」
兄上の声が、凛と明示する。
一定の律動を踏む短い文言は、故郷の東国で古くから好まれている様式の詩だ。
其れを聞き、俺の頭の中で点と線が噛み合った。
「父上が、出雲が生まれたときに詠んだ倭歌だ。
雲と雨が共に在れば、険しい寒さが訪れる如月においても、邪念のない清澄な心を留め置ける…そんな意味が込められていると解釈できるだろう?」
我らが兄弟の名にそのような尊大な理由が込められていたとは、知らなかった。
父上も粋な計らいをしてくれる。
其れも知らずにぷりぷりと不満を呈していた自分が恥ずかしい。
「それにね。僕は曇り空も美徳だと思うんだ。風に揺られる曖昧さが、時に恋しくなるんだよ。……万物に美しさを見出してこそ、世の中を愉しく渡り歩いて行けるのではないかな。」
俺は黙りこくって猛省した。
無知はいかん。井の中の蛙はもっといかん。
世界を広く観る、鷹の目を持たねばならぬのだ。またひとつ、成長しよう。
濃い影ある処に、更に濃い光在りけり。
曇天すらも美しさと捉えられる、清い心を持とう。
その点でも俺は兄上に劣っている。まだまだ精進が足りない。
しかし俺はもうひとつ、決定的に気になることを見つけた。
「ならば父上は、子が二人生まれることを想定していたのだろうか。」
隣で雲を眺めていた兄上が、何かを言い澱む気配がした。
「……そうだね。計画的に励んだのではないかな?」
聞かねば良かった。生々しい。
「出雲、全てを真面目に捉える必要はないんだよ。邪推は程々に。」
「分かっている。」
もう何も言うまい。
つまるところ、世界は途方もなく美しい。
趣溢れる世界の事象のうち、ひとつを名として与えられたことを、素直に歓ぼうではないか。
真っ直ぐに、己の名前が誉であると、今なら言える。
「あ、」
風が凪いでいる。
雲間が笑った。
「ごらんよ。 見事な陽射だ。」
天上から降り注ぐ明光は、燦々と輝いているのだった。
雲の欠片を、羽衣として纏って。