天高く名も無き鳥が鳴く、晴天の小春日和のこと。
様々な文化が根付く大きな都市に来た俺は、老舗の古書店に雇口を見つけた。
森林公園で古本市を開く予定で、公園まで本を運ぶのに人が必要とのこと。
連休の中日というのもあり、大都市には方々から大勢の人が集まっていて、普段は車も通れるはずの道が歩行者用に車両通行禁止になっているため、運搬車が使えない。
だから沢山の本を積んだリアカーを引けることが条件だった。
腕力と体力に自信のある俺に持って来いの仕事だ。
リアカーに本を積み、公園と店を何度も往復する。
古書界隈で有名な店だけあって、幅広いジャンルの本が市に出されていた。
ハードカバーの厚い本。文庫本サイズの薄めの本。どれもこれも表紙が草臥れ、ページが茶けた見るからに古い本だ。
学が浅い俺には何の本だか分からないものもあったが、店主が言うに相当の値打ちものもあるらしい。
だったら日の下に置かず書庫に保管しておくべきだろうに、店主は公園にそれらを並べようと鼻息を荒くしていた。
雇い主の意思は岩の様に固い。俺はとにかく丁寧に扱うことを心がけた。
多くの本が公園に並べられた景色は壮観だった。
簡易なテントの中に台を置き、ジャンル別に本を揃えただけの市場でも、木漏れ日が本の表紙を緑色に染め上げる様子は、森の中に佇む図書館を思わせる。
店主から渡された雑然としたメモをもとに、数十種はあるジャンル別に本を分けるという大仕事を終えた俺は、テント脇の椅子に腰をおろし水を飲む。
正直、本を運ぶよりそっちの仕事の方が骨が折れた。
あんなに細かく分類分けする必要が、果たしてあったのか。
しかし雇い主の意思は岩の様に固い。俺に噛み砕ける道理はなかった。
「アール、ご苦労様。夕方の片づけまでに戻ってくれればいいから、休んで来な。」
店番には別の人間を雇っているらしく、俺は早々に休憩を言い渡された。
まだ体力は余っているし、公園の時計台を見れば午前の11時。飯を食うには少し早い。
しかし不愛想で不器用な俺に接客は務まりそうもない。
仕方がないので今夜の宿を押さえに行こうと腰を上げた。
その前に、古書市場を覗くことにした。
字は読めるが、生まれてこの方真面目に本を読んだことなどない。
読書に興味もなかったから、ただの暇つぶしのつもりで、開店間際でさほど客の居ないテントの中をうろつく。
生物図鑑。胡散臭い雑誌。外国語で書かれた絵本。
改めて見ると、本当に色々な本がある。
本好きな店主に世界各国から掻き集められたそれらは、物珍しいが、やっぱり読もうとは思えない。
ものの数分で目が疲れてしまった俺は、テントの外へ足を向ける。
しかしテントを出る直前、ふと視界の端に一人の男性が映った。
その男性が何処にでもいそうな身なりだったら、俺は足を止めなかっただろう。
しかし、春だというのに分厚いコートを着込んだ長身の男性の腰には、見紛う事なき刀が刺さっていたから、俺はその横顔を凝視した。
涼しげな目で小さな本を眺めている男性は、俺の視線に気づいたのか、本から顔を上げこちらを見る。
「………君は、此処の店員さん?」
そして綿毛のような笑みを浮かべ、柔らかい声音で問うた。
艶やかな長い黒髪が、春の風に揺れている。
「……何故、分かった?」
「君がさっき、一生懸命本を運んでいるのを見かけたから。」
剣のある視線で睨みつけても少しも怯まずに、男性は再び本に視線を戻す。
たったそれだけのやり取りなのに、俺はその男性から目を離せずにいた。
そこに居るのに、居ないような。消え入りそうな、透明感のある存在に。
それに、彼の周囲の風だけが青色に染まって見えたのだ。
刀を持っていても危険な人物には見えない、むしろとても穏やかで。
不思議な存在だった。
「この本はね、童話なんだけれど…… 子供の頃に、読んだ記憶があるんだ。」
語り始める彼の周りの時間だけ、ゆっくり流れている。
俺はその時間に取り込まれていた。
「僕には、弟が居たんだ。この本を毎日一緒に、夜遅くまで、顔を突き合わせて読んだのを思い出して。………懐かしくなってしまったよ。」
そう話す彼の物言いこそ、童話のように朗らかだ。
愛おしむ手つきでページを捲る所作が、あまりにも優しさに溢れていたので、俺は彼に歩み寄り
「それ、買うなら、支払いはあっちで……」
と店主の居る方を指差し言いかけたのと、彼が本を閉じるのは同時で。
古びた本の表紙が見えた時、俺は思わず「えっ」と声を上げていた。
「……どうしたの?」
不思議そうな彼の声に目も上げず、本の表紙に記された童話のタイトルを口にする。
「―――― ”青年アールの冒険” 。」
「ん? ………ああ、そう。この本は、アールという青年が、人々の平和を守るために旅に出るお話でね――― もしかして君も、読んだことが?」
「いや………違う。」
呆気にとられる俺を見た男性は、小首を傾げ整った眉を寄せる。
俺は指先を、ゆっくりと本の表紙に向けて。
「アール、とは………俺の名と同じだ。」
「えっ。きみ、アールというのかい?それは……凄い偶然だなぁ。」
重々しく頷く俺に、焦げ茶色の双眼を丸くした男性が驚いて笑う。
俺だって驚いた。自分の名が物語の主人公に使われていたとは。
――――逆か?
両親はこの話から俺の名をつけたとか。
いやまさか、そこまで偶然が重なる筈はない。
「そう………アール。そうか。」
暫し何かを考えながら本を見つめていた男性は、唇の動きだけで小さく俺の―――童話の主人公の名を呟くと、ふふっと含み笑いをし、尋ねてくる。
「お会計は、どちら?」
「あ、ああ。あっちだ。」
「そう。ありがとう。」
男性は本を片手に颯爽と店主の方へ向かう。
その足取りは軽やかで、背を追う風はやはり青色だった。
不思議な男性との出会いと、自分の名が使われた童話との出会いで、俺は驚きと戸惑いに呑まれていた。
先程の口ぶりからして、あの本は彼と弟との思い出の本に違いない。
そして、弟が”居た”という言い方から、もしかして彼の弟は―――。
自分と同じ名の主人公の話は、実は多少気になるけれど、俺が手にすべきものではない。
会計を済ませる細い背を見つめていたら、踵を返した彼がこちらに歩いてくる。
満足げな笑みを浮かべている彼は、前髪の奥の瞳を和らげ、剥き出しのその本を俺に差し出した。
「これは、アールにあげよう。」
「え?」
俺は面食らった。
だってこれは、アンタと弟さんとの思い出の本なんじゃないか。
あんなに大事そうに眺めていたのに、どうして。
俺の言いたいことを全て分かっているような顔をして、彼は優雅な口調で言う。
「もう僕に、思い出は要らないから。」
今にも消え入りそうに微笑んで。
「その本の”アール”がどんな旅をするか、そして物語がどんなふうに終わるか…… 自分の目で確かめてごらん。」
半ば押し付ける形で俺に本を渡した男性は、風に髪を揺蕩わせながら俺から離れてゆく。
去り際、一度だけ振り返った彼は、悪戯っぽく言い残した。
「そうそう……アールという名には、”戦士”という意味があるそうだよ。逞しい君に、ぴったりの名だね。アール。」
さようなら。
風を伝って届く声はささやかで、それでいて何者も寄せ付けない強さを孕んでいた。
本の表紙に描かれた、剣を掲げる精悍な表情の青年を見つめていた俺が目を上げたら、既にそこには彼の気配さえ残っていなかった。
俺はとうとう彼の名を聞けぬまま。
さようならの声だけはずっと、耳奥で反響して消えなかったが。
その日の晩から、貰い受けた童話を読み始めた。
本をしっかりと読むのは初めてだったので、挿絵もある子供向けの童話なのに、最初は一日に2,3ページしか読めなかった。
しかしその物語の波瀾万丈さに引き込まれ、半分を過ぎた頃には、仕事の休憩時間などを利用し一日に10ページ程度は読めるようになっていた。
そして終盤は一気に読み進め、読み終えたときには、まるで自分が大冒険を終えたかのような達成感で胸がいっぱいだった。
主人公の”アール”は、大冒険の末に人々の生活を脅かす魔王を倒し、街に平和をもたらした。
魔王に捕らわれていた姫と結ばれ、めでたしめでたし。
勇気溢れる冒険の末に、たくさんの幸せを手にした”アール”。
その名は勇敢な戦士の名。
偶然名前が同じというだけなのに、俺は何だか誇らしくなった。
俺も、この表紙の青年のように、剣に代わって拳を掲げ、胸に確固たる信念を抱き生きていきたい。
そう思いながら、明日の冒険―――旅路の為に、そっと瞼を落とした。