五月十日 晴れ
朝の修行後、近場へ仕事に出た。
父上は勿論だが、兄上の腕も素晴らしい。
いつ見ても惚れ惚れする剣捌きだ。
兄上は謙遜しているが、街の人々は口を揃えて兄上を「剣豪」と呼ぶし、父上もその腕を、如月家の正式な跡継ぎとして認めている。
だから俺は純粋に、兄上を尊敬している。
兄上と同等の力を得るため、俺も精進せねば。
今はまだ勝てたことはないが、いつか一勝してみたい。
いや、勝つ。そうして認めてもらうのだ。
五月十七日 晴れ
父上と兄上は、今日から異国へ仕事に行き、一週間家を留守にする。
その間、俺は母上の家事を手伝いながら、修行に精を出す。
二人が帰ってきたとき、腕を上げたところを見せたい。
そして遠出の仕事にも、同行させてもらいたい。
俺も、剣技を磨いて十年。二十歳になった。
もう修行だけの剣士ではない。
父上もそれを認めてくださっている。
五月二十三日 曇り
父上と兄上が帰ってきた。
久々に三人で修行をしたが、どうも兄上の様子がおかしい。
終始上の空で、剣の太刀筋にも覇気がない。
凪助の纏う風も、……妙だった。
何と言うか、不気味なのだ。
例えるならば、墓場に漂う重い空気感。
浅葱色の風は以前に増して透き通っており、尚且つ濃い圧迫感がある。
ひどく胸騒ぎがする。
父上も兄上の異変に気づいておられるようだが、何も言わないところを見ると、兄上が自分自身で解決する問題なのだろう。
俺にとやかく言える権利はないが、心配だ。
悪い病気等でないといいのだが。
五月二十七日 雨
日に日に兄上の様子がおかしくなっている。
昨日は朝の修行にも出ず、自室にこもっていた。
父上が声をかけても、何の応答もないらしい。
俺も声をかけた。だが兄上は、生気のない瞳で凪助を見つめ、生返事をするだけだった。
かと思えば今日は、朝からずっと雨が降っているのに、一日中外で剣を振るっている。
夜になった今も。
勿論、誰が止めても無駄だった。
食事もとらないからやつれているし、まるで何かに憑かれているようだ。
流石に父上もただ事ではないと察したのか、兄上を説得している。
時折、父上の激しい叱責の声が、庭から聞こえてくる。
しかし兄上の声は、全く聞こえない。
一体、兄上はどうしてしまったのだろう。
五月二十八日 曇り
今、震える手でこれを書いている。
さっき兄上の部屋を覗いたら、兄上が凪助に話しかけていた。
その光景だけでも驚いたが、話している内容が異常だった。
兄上はこう言っていた。
「凪助、愛しているよ。世界で一番、愛している。御前も僕を愛している。嬉しいよ、凪助。」
手の震えが止まらない。
兄上は正気じゃない。
あの眼は、狂人のそれだ。
兄上の瞳にはもう、凪助しか見えていない。
俺も、父上も、母上も見えていない。
兄上は狂ってしまった。
父上に、知らせくては。しかしなんと言えばいいのか。分からない。気持ちの整理がつかない。
今も、兄上の部屋から、うわ言の様に凪助を呼ぶ声が聞こえる。
五月三十日 曇り
兄上が出て行った。
兄上は、引き止める父上との真っ向勝負で、父上を斬った。
加減も容赦もなく斬り捨てた。
あの怪我では、父上はもう、刀を握ることができないだろう。
俺は兄上を許せない。父上の身を、希望と共に斬り捨てた兄上を許せない。
しかし一番許せないのは、自分自身だ。
俺は兄上を止めることができなかった。
出て行く理由を訊くことさえ、できなかった。
もはや兄上は、俺の知る兄上ではない。
如月の姓を捨て、剣士としての道を捨て、世まで見捨てた兄上は…
何処へ行ってしまったのだろう。
どうして兄上は、変わってしまったのだろう。
俺は諦めたくない。
兄上に戻ってきてほしい。
兄上を救いたい。
右目の視力は失くした。しかしこの程度、父上の痛みに比べればかすり傷だ。
身体の調子が戻ったらすぐ、旅に出る。
俺は一刻も早く兄上を見つけ、連れ戻す。
それが俺の、剣士としての仕事だ。
何年かかっても必ず成し遂げることを、此処に誓う。
如月 出雲
(名の横に赤黒い拇印が捺され、日記は終わっている。)
PR
COMMENT