「もう全部食べちゃったの?」
恐らく、お前の最古の記憶はこの口説であろうと、私は思う。
日々労働に勤しみ、毎夜目を瞑って約3秒で眠りについてしまうお前に、過去を懐かしむ暇はない。
だからお前の記憶は、脳髄の深淵に沈み込んだまま、決して浮かび上がりはしないだろう。
今まではそれでよかったのだ。
そうでなければお前は、泥沼に脳天からめり込んで窒息してしまっただろうから。
絶望という名の泥沼は、流石のお前にも消化しきれはしない。
しかし現在は、如何だろう。
私は何よりもお前を知っている。
何度でも言おう。私は何よりもお前を知り得たものだ。
「化け物。」
お前はこの文言にひどく敏感である。
下手をすれば児童用の童話にも出てくる、造語の類であることに違いはない。
しかしお前は、この単語を聞くたびに、胸の奥の一番柔らかい場所を引っ掻き回された気分になる。
戦犯がか細い爪の日もあれば、肉切り包丁の日もあり。
酷い時には死神の鎌で八つ裂きにされる日もあった。
しかしお前は強かった。
心についた傷を翌朝にはすっかり癒し、何事もなかったかのような精悍な面持ちで労働に出かけるのだ。
傷が嘆き、流した血潮の量は、とてもじゃないが量れる体積ではなかろうに。
「殺してください。」
お前はこの口説を覚えているか。
誰かがお前に懇願したのではない。
誰かが、他の誰かに、懇願したのだ。
つまり正しくはこうである。
「この子を、殺してください。」
残酷なようだが真実だ。
お前が、人間としての生き方を手に入れ、ささやかながら満ち足りた幸せを甘受している今、私は云い聞かせねばならない。
お前が生きて来た道を。
お前が死せずに居た理由を。
でなければお前は、将来に絶対的な幸福を得た時、必ず苦しむことになる。
私という存在と、己の成した所業について、深い贖罪を強いられることになる。
それらは苦く、辛く、鉄錆を毒液で煮しめた味がする。
流石のお前にも消化しきれない。
破片を舐めることすらできず、自分の嗚咽で溺死するだろう。
「化け物。」
お前は化け物ではない。
お前を宿主とする私が、魔の象徴であるだけだ。
「この子を、殺してください。」
お前は殺されるべきではない。
何故私がお前の腹に馳せ参じたかを考えろ。
強固な体と精神を育んだ代償に、脳味噌の皺を増やせなかったお前には、難しすぎる課題だろうか。
苦行かもしれないが、熟考を重ねろ。
そしてこれまで通り、己の精神で私を征服し、私と同期するが好い。
然すればお前の道は開かれん。
開いた光明の先に待つものを見てごらん。
幸せか? お前の望む温もりが在るか?
私は何よりもお前を知るもの。
私の力添えにより苦痛を伴おうとも、お前はもう屈することはないだろう。
お前は強い。そして優しい。とても、良い男になった。
これはある種の自画自賛だろうか。
聴け。観ろ。嗅げ。感じろ。そして、味わえ。
全ては邁進へと繋がる人間の生き様だ。
但し、腹が減っては戦は出来ぬ。
昼はひねもす夜は夜もすがら、五臓のど真ん中・丹田にて、兵糧を待つ。