― June 21 ―
「…………雨かぁ…。」
宿の軒下で、天上の灰色を睨み上げる。
ついさっきまで、渋っているだけだったお天道様が、今は泣いている。
朝っぱらから、気が滅入る。
リュックの中には折り畳み傘が入っているけれど、街に繰り出す意欲は全然沸かない。
傘を差しても濡れそうなくらい降っているんだもん。
合羽が欲しい…… とか、考えながら、湿気でまとまらない髪を撫でつけて。
視線を空から前に移したら、向こうの大通りから誰かが猛スピードで走って来る。
傘を持たず、合羽も纏わないで。
「きゃーーーーっヤバいヤバい、もおおぉお最悪ーー!!」
ばっしゃばっしゃと雨水を跳ね上げ、大声で雨音を掻き消しながら、女の人が軒下に飛び込んできた。
お姉さんは悲しそうに顔を歪め、真っ赤なニット帽を外し、みつあみの金髪を振り乱して、びしょ濡れの上着を脱いで。
そこでようやく、隣に居るあたしの存在に気付いた。
「あっ………。」
まん丸い瞳があたしを見つめ、気まずそうに照れ笑って。
「あ、はは。 ねぇ、もう!ヒドイと思いません?!予報では曇りだったのに、急に降るんですもん!」
「あー……うん。そうね。」
あたしは適当に相槌を打ちながら、リュックを下ろして折り畳み傘を出す。
ついでに大きめのタオルも出して、そっちはお姉さんに差し出した。
「これ、使って。風邪ひいちゃうよ。」
どんぐりお目目のお姉さんはキョトンとしているばかりなので、胸にタオルを押し付けてやる。
そうしたらやっと受け取ってくれた。
「えっ、で、でも……!」
「いいから、使って。傘は一個しかないから、貸せないけど。」
最初は渋っていたお姉さんも、つんと視線を逸らしてやると、
「……じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとうございます!」
びしょ濡れなのに元気だね。 犬みたい。
傘を出したはいいけれど、雨の中に飛び込んでいく意欲は掻き立てられないまま。
ぼんやり軒下に佇んでいたら、お姉さんの独り言が聞こえてきた。
「あーあ……。パトロール、戻りたくないなあ。」
――― パトロール。
「こんな雨の日なんだから、泥棒も強盗も、おやすみしてくれればいいのに。」
――― 泥棒も強盗も。
「ねぇ、貴方もそう思いません? ………… あれ?」
あたしは既に軒下から飛び出していた。
猛ダッシュで走るから、傘を差しているのに激しく濡れる。
でもそんなの気にしない。
遠くから、 タオル洗って返しますー!! なんて声が聞こえた気がしたけど、無視する。
返さなくていい。
お姉さんと、お互い”仕事中”に会わないように願いながら、雨粒を掻き分けて奔走する。
あたしの、梅雨の朝。
― June 30 ―
その日は朝から雨だった。
苔むす湿気が地表から空中まで、ひたすらに覆う梅雨だった。
客足は奮わないし、繊細な果物はすぐ傷んでしまうし。
そんな日に、果物屋の店主の機嫌が、いいはずがなかった。
「アールよ。」
閉店間際の夕暮れ時、店先でむっつりと腕を組んだ店主が、奥で掃除をしている青年に声をかける。
「はい。」
晴れでも雨でも同じ苦虫面の青年が、奥から顔を出す。
店主は、蜘蛛の糸のように細く長い雨を、睨んでいる。
「人生なぁ、楽しいことより辛ェことのが多いんだ。梅雨みてぇに、気が滅入る日がいくつもいくつも重なって、人の生き様ってのは出来るもんなのよ。」
齢4,50の店主が語る言葉は重く、青年の心に染み渡る。
街の小さな果物店の主の言葉は、青年にとってひとつの財産だ。
店主の視線の向こうで、雨は降り止む様子を見せない。
「でもな、アール。そんな辛い人生でもなぁ、いつか必ず、ああー生きててよかったなぁ…って思う日が、来るんだよ。
そういうときの為に、俺らは生きなきゃなんねぇ。生きてんだ。分かるだろ。」
青年は、全てを理解できるほど成熟してはいなかった。
たかだか20年しか生きていない青年に、その言葉は少し重すぎて。
「はい。」
相槌を打つのがやっとだったけれど、それが青年の仕事ではないことくらい、承知の上。
店主が本当に言いたいのは、
「……だからよぉ、逃げた女房から連絡が来ねぇことなんざ、屁でもねぇっつうんだよ。なぁアール、そうだろ。」
雨の日はいつも、この話をするんだ。
今週に入って、3度目である。
未だにどんな言葉を返していいか心得ていない青年は、暫し悩んだ挙句。
早く雨が止んでほしいと思うのだった。
「……店主。それなら酒の量を減らすべきだ。」
「てやんでぃ、そんなことできるか!!」
― July 7 ―
昨日まで3日続いて雨だったのに、今朝は空から雫が降ってこなかった。
目を開けることが苦でなかったのは、そのおかげかもしれない。
上体を起こし、下半身は毛布と布団の間に挟んだまま、外を見ている。
時間の流れが少しだけ遅い。
髪を撫でる風が、昨日より涼しかった。
「 ―――時雨、ここに笹を飾っても構わない?」
開け放した障子の向こう、縁側の方から、中年女性の声が聞こえる。
玉虫色の目を弛ませた女性が、僕を見ていた。
その声を、最近毎日聞いているから、母だと認識する。
僕は微かに顎を引いて、了承の意を伝える。
母は嬉しそうに微笑んで、笹を縁側の柱に結わえ付け、僕の部屋へ入ってきた。
布団より縁側に近い位置で正座をする母の膝に、細い紙が乗っている。
淡い桜色の其れを僕が見ていると、母はそっと持ち上げて、表面をこちらに向けた。
「時雨。今日は七夕なのよ。覚えている?小さい頃、お父様が笹を買って来てくれたでしょう。皆でお願い事を短冊に書いて、飾ったわよねえ。」
和やかに語られる情景を、思い出そうとした。
頭の奥に霞がかかって、うまく記憶を辿れない。だから僕は、黙っていた。
母は気を害した様子もなく、穏やかに微笑む。
「貴方も出雲も、同じ願い事を書いていたのよ。家族みんなが、幸せに過ごせますように、って……。
母さん、思い出してね。懐かしくなってしまって。だから昨日、笹を買って来たの。これを飾ろうと思って。」
――― そうですか。
僕の声じゃないような声に、母は頷いた。
短冊と呼ばれる紙面に、達筆で書かれた縦綴りの文字を、霞む視線で追う。
「――― 出雲は、大丈夫かしら。今、どのあたりを歩いているんでしょう。」
出雲とは、僕の弟だ。
彼は僕よりもふさわしい名を背負い、雄々しい体裁で地を踏んで、逞しい腕で愛を守っている。
今も、彼唯一の者を探しているのだ。
「今日は曇りねえ。せめて雨が降らなきゃいいのだけれど……ほら、織姫と彦星が、出逢えないでしょう?」
年甲斐もなく茶目っ気を見せてはにかむ母に、僕は微笑み返した。
母が驚き、短冊を指先から取り落す。
はらりと落ちる、 幸せに過ごせますように の願い事。
「大丈夫ですよ。 きっと、逢えます。」
彼には、叶う。
― July 20 ―
「ぁ゛あああ~~~~~ッ……… げほっ もうだめ、死ぬ。もー走れね。無理。死ぬ。」
ばったり、と草の上に身を倒す。
青い匂いが鼻をつつき、土気は俺の頬を何より優しく撫でた。
大自然、母なる大地の鼓動に安らぎを求めて、深呼吸を繰り返そう。
ことは数十分前に遡る。
俺は吸血鬼を名乗る銀髪の男に出会い、血を吸わせろと物騒な依頼をされ、一も二もなく断ったら問答無用で追いかけられた。
猫に追尾される鼠、すなわち玩具感覚で追っかけまわされた俺は、体色変化能力とすばしっこさをフル活用し、奴を撒いたのだ。
もう追いかけては来ない筈。奴の羽の音は、聞こえない。
「はーーー……… 信ッじらんねぇ。」
数日前、川で綺麗に洗った白衣が台無しだ。
脱力感と虚無感に任せ仰向けに倒れれば、そこは満天の星空。
俺を見下ろす星座の歌声。
陰鬱な雨の季節は、通り過ぎていったらしい。
俺の気持ちは、夏の気配に誘われ、ふと宙に浮かび上がった。
「夏……… 夏か。」
漂う思惑は、過去の記憶を辿り始め。
「学会の季節だなぁ。」
そんな呟きに至った。
世界中から研究者が集まり、己の成果を自慢……否、評価しあう研究発表会。
夏は特に大きなものが開かれることが多い。
今頃、数多の理系学徒たちが、準備に身を費やしていることだろう。
俺も大学院生であった数年前は、その一人だった。
苦くも美しい学徒の頃の日々が、昨日のことのように思い起こせる。
忙しさのあまりにヒステリーを起こし、「役立たずのサンプルなど要らん!」と細胞を全て処分しやがった指導教授は、相変わらずなのだろうか
尊敬できる研究者だが、あの事件だけは絶対に許さない。
普段は寡黙な男なのに、俺が卒業する際に、
「俺は先輩の事を尊敬していましたし、好きでした。変な意味じゃなく。本当はもっと仲良くしたかったです。変な意味じゃなく。」
と泣きじゃくりながら花束を渡してきた後輩は、元気だろうか。
俺は今、こんな様態です。
哺乳類と爬虫類を遺伝的に組み合わせることが可能だと、知ったら彼らはどんな顔をするだろう。
ひとり皮肉にほくそ笑んだら、急に眠気が襲ってきた。
星の洪水にまみれた俺は、静かに瞼を落とす。
世界中の誰の元にも、足音軽やかに夏が来る。
泥棒にも、警官にも、労働者にも、病人にも、研究者にも、平等に。
マザー・シップに乗った俺たちは夏に鼓動を馳せているのだ。
― Summer has come !! ―
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