ある日ボクのところに、一人の男性が訪ねてきた。
ボクの研究所は、普通の人間には訪問できない場所にある。
誰もが察知できる施設だが、傍目からは決して見えない場所。
何の情報も無しに尋ねようとしても、絶対に辿り着けないような場所に立地している。
だから今対峙しているこの人は、確かな情報筋から此処の情報を仕入れ、細心の注意を払いやってきたのだろう。
ボクが知る人間の紹介なら一報がある筈だが、何の報せも無い。
不可思議な事態に心の中で首を傾げつつ、齢は二十半ばに見える彼に尋ねた。
「キミはどなた?」
カラスの濡れ羽色の長髪を揺らして丁重に一礼し、彼は答える。
「シグレと言います。初めまして、ウィリアム先生。」
研究室の機械の音で掻き消されそうな細い声に、心底驚いた。
ボクを先生と称する人間は数少ない。
その人物のうちの誰かがボクを紹介したとすれば、報せが無いのも頷ける。
ボクはマスクの下で鬱蒼と笑い、スツールから立ち上がって、傍らのガスバーナーに着火する。
「せンせい、かあ。んっふふ、VIPなお客サンのようだネェ。
歓迎するよ、いらっしゃいマセーシグレさん!そこにお座り、珈琲を淹れるからねン。」
と、お客様用の肘掛け椅子を指した。
ガスバーナーの上に鉄網を渡し、ビーカーで湯を沸かす。
コーヒーフィルターをポットにセットし、昨日挽いたばかりの豆も用意する。
珈琲の香ばしい香りが充満する研究室で、シグレさんと向き合った。
ゴーグル越しに、彼の玲瓏たる視線が立ち向かってくる。
桁外れの視力を持つ義眼を凝らしても、彼の瞳に生気は、窺えなかった。
血管が透けそうな白肌、骨ばった手つき、浮き上がる喉仏。
どこを取っても彼は、まるで綺麗なゾンビ。ネクロマンサー大喜びの肉体だ。
そして、ボクの姿を一目見ても、驚いた様子が無い。
普通は驚くなりドン引くなり、何かしら反応があるんだけれど。
最近そういう人と会うことが多いなあ、と少し面白くない気分になる。
穴が開くほど見つめても、作り物みたいな笑顔を欠片も崩さないシグレさんに、珈琲を差し出す。
「……で、早速本題だけンど。何をお求めに来たのカな?
ご存じのとーり、ボクはお望みのクスリを作ってアゲられるよ。
効能も用法も、なァんでもご希望通りに。ただしッ、材料代もそちら持ちなので、料金はお高いワヨ。」
シグレさんは熱々の珈琲に息を吹きかけ、一口飲んでから、たっぷりと間をおいて、その伏し目を上げた。
「睡眠薬です。……頓服薬、というやつかな。」
その申し出には拍子抜けした。
訪問者の9割は毒薬を、もう1割は殺虫剤を依頼するのに、この人は睡眠薬だって。
流石ボクを元医者だと知るだけはある―――いやいや、そうじゃない。
「頓服ゥ?そんなん、どぉしてわザわざボクに頼むの?
市販のでも、病院のでもイィんじゃない。何なら知り合いの精神科医に頼んで、ソッコーでデパス出してもらオぅッか?」
睡眠薬を作れないわけじゃないが、莫大な金を払って(自分で言うのも何だけど)作るものではないだろう。
今使っている薬の効き目が悪いと言うのなら、強い薬を仲介してあげることはできる。
しかしシグレさんは、ゆるりと首を横に振った。
「市販のものでは駄目なんです。どんなに強い薬でも、中途覚醒してしまう。」
「強いのって… デパスもハルシオンも、ラボナも?」
「ええ。 兎角全て処方してもらいましたが、全部… 足りませんでした。」
物語を紡ぐようなすべらかさで応えるシグレさんは、物悲しそうに目を伏せた。
「それは相当重症な不眠症なのねェ、お気の毒ーぅ。
バルビツール酸系がダメなら、確カにオーダーメイドが必要かもね。」
頭の中で何を材料に使おうか、いくつか候補を考えながら、雑然とした机からメモ用紙を発掘する。
ポケットからボールペンを出し、レシピを考案する前に、患者―――もとい、お客さんのご希望を聞き取らなきゃ。
「ぇえットお、ラボナでも中途覚醒しちゃウンだよね?大体どのくらいで目ェ覚めるの?」
「………7,8時間、でしょうか。」
「へぇあ?! 7,8ぢかん?!!」
早速メモを取る手が止まった。身を乗り出してシグレさんを見つめてしまう。
この人は睡眠薬がどういった薬なのか分かっていないのだろうか?
適切な睡眠時間を全うしておきながら、中途覚醒を申し出るなんて。
シグレさんの担当医は相当なポンコツだったらしい。患者に薬効を適切に説明していないのだから。
「どうしました、ウィリアム先生。素っ頓狂な声を出して。」
蛍の光のように笑うシグレさんに、ボクは呆れてしまった。
まさかからかっているんじゃないよね?
「あのネェ、シグレさぁーん。それはじゅゥぶんクスリ、効いてるよン?
中途覚醒っつーのは、1時間とか2時間とかで目覚めることを言うの!
キミのは正常なおねんねダヨ!不眠症改善待ったなしだって!!」
「だからいけないのです。」
ぴしゃりと放たれた声が、空間の色を変える。
「僕は不眠症ではありません。しかし、正常でもいけないのです。
延々と、眠り続けていたいのですから。」
――――つまりは自殺願望ではないのか。
永眠をお望みなら睡眠薬ではなく、飲んで苦しまずに死ねる薬を作ってほしいと言えばいいのに。
さらに言えば、自殺に使う薬なら、病院で処方される薬でも事足りる。
裏ルートで大量に手に入れればいい。
ボクはますますシグレさんの事が分からなくなり、首をほぼ90度傾けた。
「ンン??じゃァ死ねる薬でいンだよね?
そーゆのなら割と安価で作れるよ、もちろん苦しまずに逝けるの―――」
「いいえ、死んではなりません。」
「はあ。」
溜息とも相槌ともとれる息遣いに、シグレさんは微笑んだ。
「命を落としては意味がない。2,3日眠り続けられる睡眠薬がほしいのです。」
限りなく自死に近い睡眠。
シグレさんが欲しているものが漸く理解できて、「成程」と頷いた。
他界寸前の世界を覗きたがる欲望は、生きているのに死んでいる彼のような人間が抱きがちな幻想だ。
しかしシグレさんは、幻想を現実に変える権利がある。
ボクの居場所を突き止めた報酬だ。
「要ォするに、致死量ギリギリの毒薬的な?」
「そう解釈して頂いて構いません。……ただ、身体に悪影響がなければ。」
「ぐふふ、数日飲まず食わずで寝るッて時点でハイパー悪影響デショ。」
ボクは含み笑いながらメモにレシピを書き留める。
少し難しい仕事になりそうだが、彼のように欲望に忠実な人間は好きなので、一生懸命頑張らせてもらおう。
軽く見積もった作成料金を提示し、シグレさんが頷いたら、後で体裁のはっきりした注文票を渡す約束をして。
契約書にサインをもらえば、商談成立だ。
珈琲がすっかり冷めきった頃合い、シグレさんは慇懃に一礼する。
「ありがとうございます、無理を言ってしまい申し訳ない。」
「ンーん、気にしないで!ソレがボクのぉ仕事だもん。大体2週間でデキルと思うから、頃合いを見てまた来てくレる?」
ボクは普段とは趣向の違う依頼に心をときめかせた。
道理から外れた薬ばかり作成していると、正しい倫理観を忘れてしまう。
たまにはこうして原点に返って、一般的な薬と向き合う機会を設けるべきだろう。
一泊の小休止の後、ボクは不意に問うた。
「はて、キミは、随分と長ァい眠りを欲しているヨウだけンど。
覚醒ガ鬱陶ぉしいのなら、いっそ死ンでしまったなら良いじゃない?」
これは単に、個人としての考え。
呼吸音さえなければ死人とも違えるだろう、現世を突き放し孤立した彼が、何故生にしがみつくのか分からなかった。
彼のような人にとってこそ、死とは快楽。悦の極み、救済であろうに。
数秒、停滞した沈黙。
シグレさんはおかしそうに肩を竦めた。
あはは、と、少年めいた無邪気な笑い声を発す。
「はは、あはははっ――― くふふっ ―――ッンふ、ッはははは!」
声帯からようやく削ぎ取ったような発声法をしていた彼が、今や、大爆笑している。
椅子に凭れて腹を反らし、大口を開けて天を仰ぎ、足をばたつかせて。
彼が身もだえて笑うたび、肘掛椅子がガタガタと軋んだ。
「はあ――― それでは意味がない、と、ねぇ、先生。言ったじゃありませんか。」
ひとしきり笑った後、腹を押さえながらシグレさんは言った。
必死に笑いを堪えている様子で、こちらを見据える。
その瞬間、実験室内に細い旋風が巻き起こった。
机に積んでいたレポート用紙はもちろん、軽い実験器具まで吹き飛び、床に落ちる。
ボクはあわてて立ち上がり、かろうじて机上に残っていた器具たちを掻き集めた。
この部屋に窓はない。突如起こった風の発生源はどこだ。
――― 目に陶酔を司る、この男しか居まい。
「いけないよ、凪助。この人を殺したら、まほろばから一歩遠のいてしまう。」
シグレさんが風を声で撫でつけた。
ほのかな青色に光る風は、円形に収束し、シグレさんの髪を悪戯に揺らして、消えた。
面映ゆそうに笑む彼は、椅子から立つ。
その輪郭は確かな線を持っていた。
背は僕よりも小さく身体も細いのに、巨大な塔に見下ろされている気分になる。
威圧感と、厳然たる粛清の意思。
さっきまで話していた人物とは別人だ。
「………………キミは、 ……―――誰だ?」
口をついて出てきた疑問に、彼は応える。
「ああ、紹介がまだでしたね。此方(こなた)は凪助。僕の伴侶です。」
と、目を細めながら、彼は腰に携えていた刀の鞘を撫でた。
ボクは耳を疑い、刀を凝視する。
「伴侶……… 伴侶? エェと、その、刀が?」
「ええ。そう申しました。」
ボクは大概の人知を外れた現象でも理解できるが、今回ばかりは少し面食らった。
冗談や比喩表現の類ではない、本気だと彼の目を見ればわかる。
完全に、固定概念にとり憑かれた者の目をしていた。
シグレさんは室内を数歩進み、虚空に声を差し向ける。
「かの東国に伝わる妖刀の親王、風を従える悠久。それが凪助―――
僕たちは予てから共に在りたいと思っていました。遥か昔、天の妖(あやかし)が地上に凪助を産み堕とした時、僕もまた世界に堕とされたのです。僕たちは異体同心、寸歩不離。いいえ、受胎を、大地の胎盤と手を繋いだ瞬間から、身も心も同じ種に在りました。しかし悲しいかな、僕たちの時間軸は歪んでいた。交わることが決してなかった。僕たちは離れ離れでした。嘆かわしいことに、出逢い直さなければならなかった。愛への準備期間など、僕らには無駄に違いないのに。」
シグレさんが朗々と演説を続けると、収まったはずの風が再び舞い上がった。
実験器具が次々と吹き飛ばされるので、必死に拾っては棚や引き出しにしまう。
その間もシグレさんは、ボクなど眼中にないようで、直立不動で愛を語っている。
「巡り合うべくして僕らは出逢った。そして愛を確かめ合ったのです。意味もなく他の命を屠っておいて、己の命を維持する愚かさ。それを誉とされる屈辱。存在意義の理解。それは愛の証明でした。僕らには愛が必要だった。唯一無二の無償の愛を。叫ばずにはいられなかった、望むことを叶えた、世界からの離脱を夢見て。何故死んでしまえようか?僕たちは永遠の愛を手に入れたのです。何人にも侵入しえないまほろばが芽生え、僕らはそこで生きてゆく。多くの命を礎にして。決して明けない夜の中で。あるいは不落の青い太陽を目指して!」
ボクに彼の心情を理解することはできず、演説が終わるのを冷めきったコーヒーを飲んで待った。
一区切りついたところでシグレさんは鷹揚に微笑み、腰から抜いた刀を鞘ごと抱きしめて、愛おしそうに頬ずりする。
「お分かりいただけたでしょう。僕らには世界が必要なんです。お願いします。お望みの額を支払いますから。」
さっぱりお分かりにならないとは言えないので、依頼だけは請け負うと承諾すると、彼は何も言わずに去って行った。
退廃的な微笑みを残して。
荒れた実験室の片づけをしながら、ボクは彼の盲目さにかつての自分を重ねていた。
命の在り方に固執し、最愛の者たちを殺害した日を思い出す。
あれは夢のような時間だった。
ハニーとベイビーは天国でボクを待っている。
死に際の、希望に塗れた表情で、ボクを見守ってくれている。
この筆舌に尽くしがたい幸福を、シグレさんは求めているのだろう。
ならばそれを与えるのがボクのお仕事。
シグレさんの気持ちを端的だが理解した清々しい気持ちで、ボクは材料収集のため、穢れた下界へ足を浸す。
栄養失調で間違って死んでしまわないよう、特別サービスで点滴も付けてあげようか…。